特集/編集のこと。 イントロ

mapi_m18_01.jpg

編集のこと。
5人の編集人へのインタビュー

「編集」と聞くと凄く特殊な職業を思い浮かべる。
雑誌の編集だとか、映像の編集だとか。
でもよくよく考えてみると
日々の生活の中で私たちは絶えず「編集」し、発信している。
面白い出来事に出会った時、その事実を誰にどうやってデフォルメして話すか。
今日の晩ご飯は何にしようかスーパーの野菜コーナーで考える。

明日のプレゼンのために資料を集め、まとめる作業。
ネットサーフィンから自分にフィットする情報を集めて活かすこと。

過度なまでの情報社会にあって、本当に必要な情報を選別し、自分なりに解釈し、
アウトプットしていくことが、これまで以上に大切になってきている。

今回「編集」を仕事にしている5人のプロフェッショナルにインタビューした。
彼らのコトバの中に、現代を生き抜くヒントが垣間見れるに違いない。
posted by マピナビ記事 | マピナビ水戸18号記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

特集 | 01 前田 陽一[編集者・文筆家]

mapi_m18_02.jpg
photo by 岡崎伸一

PROFILE
前田 陽一 Youichi Maeda
1956年 水戸市生まれ
    水戸市立城東小学校
    水戸市立第3中学校
    茨城県立緑岡高校
    日本大学藝術学部
    茨城新聞社を経て
2008年 株式会社Press Man設立

書くことがつなぐ過去と未来

 水戸市本町に事務所を構える株式会社プレスマン。編集を軸に、様々なクリエイティブなプロジェクトを推進しているプロダクションだ。最近では、ニュースサイト「水戸経済新聞」をオープンするなど、地元の情報を積極的に取材・配信している。これまでの活動・そしてこれからの展望について代表取締役社長の前田陽一さんにお話を伺った。
 「子どもの頃から文章に親しんでいたんですね。家族、特に祖父の影響は大きいと思います。」そう語る前田さんの祖父は、文筆家。何冊もの書籍を残している。その影響もあってか環境的に書く事へのハードルは低かった。その日の出来事を書き留め始めたのが小学生の頃。その日記は現在まで一日も欠かさず(!)続いているそうだ。日々の積み重ねが、現在の活動へと脈々とつながっている。
 日本大学藝術学部卒業後、茨城新聞社に入社。記者として編集の仕事にたずさわった。毎日、取材へ出かけ、情報を収集し、その日のうちに原稿にまとめるという忙しい日々を過ごす。
「毎日が締め切り。集中してスピーディに書きあげられるのはここでの経験があったから。」制限のある中で、大切なことをシンプルに紡ぎ出すスキルと集中力を現場で学んだ。取材の基本である情報を余すことなく引き出すヒアリング力もここで培ったと話す。
 その後、茨城新聞社東京支社次長を経て、都内で独立。フリーランスの編集者として様々な出版物の編集やウェブサイトのコンテンツ制作にたずさわった。故郷である茨城に再び戻ったのは2年前。筆力・伝力・地域力を掲げ、昨年「株式会社プレスマン」を立ち上げた。
続きを読む
posted by マピナビ記事 | マピナビ水戸18号記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

特集 | 02 伊藤 梢[ライター・専門学校講師]

mapi_m18_06.jpg
photo by 岡崎伸一

PROFILE
伊藤 梢 Kozue Itou
1978年愛知県生まれ
茨城大学人文学部社会科学科卒
大学卒業後、水戸市の出版社(有)自在工房に入社。
その後フリーライターとして独立。

執筆が取り持つ人と人のつながり

 水戸市を中心に活動する伊藤梢さんは同世代では珍しい女性フリーライターだ。現在は、企画の立案から取材・編集までこなし、主に雑誌媒体の仕事にたずさわる。また、仕事の傍ら、専門学校文化デザイナー学院で講師として教壇に立ち、ライティングの魅力を将来のクリエーターたちに伝える。伊藤さんにお話をうかがった。
 愛知県瀬戸市生まれ。小学生の頃から学級新聞を率先して制作するなど、書くことが好きだった。新聞記者に憧れた時期もあったという。大学入学とともに来水。茨城大学人文学部社会科学科にて経済を専攻した。当時はバイヤーにも興味があり都内での就職も視野に入れていたが、茨城に残る事を決意。地元出版社・媒体系広告代理店への就活の末、水戸市内の出版社に入社した。
 「編集希望で入社しましたが、当初の配属は営業。編集スタッフに欠員が出て初めて編集にたずさわれるようになったんです。」この会社では、グルメやビューティなどのムック本を発行しており、伊藤さんは営業から取材、撮影、編集まで一通りの仕事を学ぶ。その後、この会社は倒産してしまうが、ここでの経験は、今の仕事に活きていると話す。また、その頃のつながりが現在の仕事にもつながっているそうだ。
「あの経験はなかなかできるものではないですよね(笑)。あの頃を乗り越えられたんだから、大抵のことは可能だといつも肝に銘じています。」
倒産と同時に、いきなりフリーターデビューしてしまった伊藤さんだったが、前職のつながりから仕事を少しずつ頼まれるように。仕事をした人の紹介で、また生まれる仕事。数珠つなぎで徐々に仕事も増え、フリーのライターとしての自覚が生まれてきたそうだ。
続きを読む
posted by マピナビ記事 | マピナビ水戸18号記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

特集 | 03 佐川 秀文[編集者・文筆家]

mapi_m18_10.jpg
photo by 岡崎伸一

PROFILE
佐川 秀文 Hidefumi Sagawa
1958年 福島県いわき市生まれ
1981年 中央大学理工学部工業化学科卒業。
音楽雑誌「Player」('81〜'83)、「月刊宝島」('84〜'86)に社員編集者として参加。
以後、フリーランスライター・編集者として活動
2006年(株)川又感光社に入社。タウン紙「CityLife」('06〜'08)を編集。

「編集」がつなぐ人と人

 中学時代、雑誌の編集者に憧れたことがある。漫画や音楽の全国誌。どんな人たちが作っているのか想像を膨らませながら、発信側の凄さというか熱を感じ取った記憶が蘇る。雑誌を編集するということはどんなことなのか。「Player」や「宝島」など数々の全国誌の編集や企画にたずさわり、現在は(株)川又感光社で企画編集の仕事を担う佐川秀文さんにお話を伺った。
 佐川さんが雑誌に熱中し始めたのは、中学の頃。高校時代はワンダーランド(宝島の前身)やローリングストーン日本版を立ち読みで読破するほどの熱の入り方(笑)。時代の最先端を行くミュージシャンのインタビューやドキュメントの面白さに虜になったという。70年代は雑誌が音楽やサブカルチャーのメインメディアとして機能していたのだ。
「当時なりたかった職業は“ジョン・レノンにインタビューできる職業”か“公害センター職員”。実家が工業地帯から近く、あと父親が嫌いで家から離れたかったのもあって(笑)。」ここまで明確なビジョン、凄い中学生である。
 その後、雑誌に興味を持ちつつも、中央大学理工学部工業化学科に進学。公害に関する研究を行った。しかし、雑誌に対する想いを捨てた訳ではなかった。音楽雑誌「Player」を発行する株式会社プレイヤー・コーポレーションに広告営業担当として入社したのが大学卒業後の1981年。当時編集長を務めていた河島彰氏との出会いが、その後の佐川さんの方向性を決定付ける。
「当時、河島さんはフリー編集者として独立していて、オフィスに間借りしている感じでした。そんなこともあって、いろんな面白い人が出入りしていたんです。安斎肇さんや伊島薫さん、板谷充祐さんなど、今も付き合いのある人たちはみんなここで出会った人ばかりです。みんな河島さんを慕って来ていました。」そんな河島さんにすすめられ、営業から一転、文章を書き発信する側へ。編集者・佐川秀文が誕生した瞬間である。
続きを読む
posted by マピナビ記事 | マピナビ水戸18号記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

特集 | 04 竹久 侑[キュレーター]

mapi_m18_14.jpg
photo by 岡崎伸一

PROFILE
竹久 侑 Yuu Takehisa
1976年大阪生まれ
水戸芸術館現代美術センター学芸員
現在、水戸に来て3年目。
ようやく水戸の町になじめてきた気分。
好きなこと、ヨガ、猫、飲むこと。
最近、白川昌生著「美術・記憶・生」に深く共鳴。

出会いが導いた美術への世界

 広義で「編集」を考えれば、作家を研究、作品を厳選し展覧会というひとつの場を作り出す美術館のキュレーターも同様の要素をもった業種と言える。今年で創立20周年を迎えた水戸芸術館。その現代美術センターでキュレーターとして活躍する竹久侑さんにお話をうかがった。
 もともと竹久さんは、現代美術のキュレーターを目指していた訳ではない。中・高校生の頃は、放送部に所属。映像やラジオ番組を制作したり、趣味で写真撮影をする等、ものづくりに興味はあったものの、美術とは無縁の生活を送っていた。その後、進学した大学も学問横断的なジェネラリストを育てる学部だったため、美術とは直接関連がない授業がほとんど。そんな中、写真への興味が転機をもたらした。放送部に所属していた流れで行っていた放送作家のアシスタント。その作家が手掛ける番組にゲストで来ていた写真家・伊島薫さんとの出会いが、竹久さんを次なるステージへと導く。
 当時、伊島さんは写真集「死体のある20の風景"Landscape withacorpse"」を発表したばかり。その本を見たドイツの画廊から展覧会のオファーがきていた。作家活動のマネージャーがいなかったこともあり、英語が喋れる竹久さんに声がかかる。「いきなり派遣されたのがドイツのケルンだったんです。右も左もわからないまま作家の代理として打ち合わせなどをがむしゃらにこなしました。」
そこで感じたのは、確かに存在するアートシーン。アートが社会の中で認められ、ギャラリストやキュレーターという仕事がきちんと確立している世界だった。それまで画廊巡りもした事がなかったが、現代美術を意識しはじめるきっかけになった。23歳の夏だった。

続きを読む
posted by マピナビ記事 | マピナビ水戸18号記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。